萩原一平のブログハウス

“Businessman Out of the Box”
「できる人になる3分間マネジメント(ダメな自分を劇的に変える法・NLPを実践してMBAコミュニケーションを超える)」の著者による「知的フーテン」への誘い

つまらない箱から抜け、「勝ち負け」から「抜け」、ついでに「いい人」も「できる人」も「成功人」も一笑に付そう!

いつ更新されるか見当もつかない、神出鬼没でひとりよがりな呟き、著書では書けなかったNLP、ポジティブ心理学関連あるいは無関係なエピソード、不平・不満、どんな情報も気が向けば惜しみなく書き散らす、萩原の隠れ家「ブログハウス」!
自滅するアメリカ 堕落する日本(徒然草in USA)
 デビュー作の「優しいサヨクのための嬉遊曲」以来20年以上チェックし続けているネガティブ作家、島田雅彦氏の何冊目かの新書です。
 アメリカ嫌い、村上春樹嫌いの彼が2008年から2009年にかけてNYに滞在し、大統領選挙などアメリカ、そして世界の大きな節目の中でどう感じたかを徒然なるままに書き記したものです。
 まあ、新書なので比較的大人しいことを書いています。経済史についてはかなり勉強をされたようで、とても勉強になりました。色々書いてある中でも面白かったのは彼が考案したコンセプト「極小彼岸(Nirvana Mini)」です。
 多目的、多機能の移動可能な「茶室」のような空間、内省を促す装置をユニット化するというコンセプトです。検索してみるとワシントンDCでそのプレゼンテーションが行われたようですが、その後特に広がりがあるようには見えません。しかし、新しい日本人による文化活動としては、とても面白いと思います。自分の思索、瞑想のための個人的空間、余計なものは一切なく、あるのは静寂とお茶の匂い。こんな空間、世界中の人が求めているのではないでしょうか。アリストテレスが「エウダイモニア」のための必須条件としている観想的生活を促すことにもなるでしょう。
 本書ではまた、カウンターカルチャーの衰退についても書かれています。ベトナム戦争の時は、ボブ・ディラン、ビートルズ、ストーンズなどあんなにカウンターカルチャーが盛り上がり、社会にも多くの影響を与えたのに、イラク戦争(これもベトナムに匹敵するほど酷いものだ)についてはみんな大人しくしている。アーティストの問題もあるでしょうが、それより、やはり民衆が自分さえよければいい、と白けてしまっているのでしょうね。面白くない世の中だ。
 前にも書きましたが、2001年の9・11の時私はアメリカに住んでいたのですが、NYを励ますコンサートでポール・マッカートニーが「僕たちは戦う」みたいな軍歌もどきを歌っているのに愕然としました。好きなラジオのDJが「あの瞬間60年代は終わった」と言っていましたが、的確な表現だと思いました。
 今となってはロックも体制側についてしまい、この社会のカウンターカルチャーとして、いったい何が生きているのでしょう?子供がどんな正しいことをすると親は顔をしかめるのでしょう?
答えはスピリチュアル?と言っても占いとか狭い意味でのスピリチュアルではなく、茶室にこもってトリップしてしまうような観想的世界観、ライフスタイル。なるほど、島田氏の言いたかったことはその辺のことなのか?
確かに、ロック歌手で小説家の山川健一も最近へミシンクにハマっているようだし。どんどんあっちの世界にハマって家族に嫌がられても、それでもトリップし続ければいいのか?でもそれじゃあ、政治的にはどんどん無関心になるな。いやいや、そして勝ち負けなどは気にしなくなり、「国家の退廃なんて小さい、小さい」ということで戦争もしなくなるか。少なくともカウンターカルチャーとしてはその位のこととを訴える勇気は必要ですよね。

10:23 | スローリーダーの耽溺読書体験 | comments(0) | trackbacks(0)
ウィーン家族
 よせばいいのに、また中島義道さんの本を読んでしまいました。だって、あの「戦う哲学者」、「人生に意味なんでない、死ぬことにも意味がない」と痛い真実をつく著者の初の小説となると、つい手が出てしまいますよ。
 自分しか愛せない主人公が妻、息子、母、姉との人間関係、ラポールを崩壊させていく様を描いているのですが、主人公はいたって真面目に生きているところが悲しく、また滑稽です。読後感としては、やはりあまり清々しいものではありません。
この小説は私小説だと思います。今までのエッセイに出てきた実際のエピソードが詳細に描かれています。今までは妻、子供がどんな人柄なのかは言及されていませんでしたが、今回は小説という形で、あくまで著者はこう見ているという視点ですが、かなり辛辣に描かれています。これを読んだ家族はどう思うのだろうか?という疑問は実は小説の中で主人公が自分の育った家族の闇を著作の中で暴露し母、姉との関係が悪化するというエピソードがあるのですが、そこで予言・実演されていて、相変わらず中島氏の「戦う」スタンスには驚かされます。中には滑稽な部分もあり、決して悲惨なばかりの物語と言う訳ではないのですが、あまり人を元気にする作品でもないと思います。
人に優しくなろうとすると益々優しくなれなくなる自分、人から「なんであなたは変わろうとしないのか」と詰め寄られきょとんとしてしまう自分、ここでちょっと取り繕えば調和を取り戻せるのにそんな茶番はしたくないと思い全てをぶち壊す言動をしてしまう自分、など共感するところもあり、やはりこの人の作品はある意味人生の真実を暴いており、胸に鋭く響くものだなあとため息が出ました。
 「人は愛されたいのに愛されないと、なんと下品になることだろう!そして、同時になんと傲慢になることだろう!」「俺は何にでも耐えられるだろう。永遠に無になること(死ぬこと)をすっと横に置けば、どんなに辛いこと悔しいこと何もかもが春の光に舞う埃のように無害で無力なものになってしまう。」
 余りに真実で目を背けたくなるようなセリフです。

 この小説を読んで、なぜかローリング・ストーンズの ”Blinded by Rainbows”という曲を思い出しました。自分の信じる宗教のために女子供も見境なく殺すテロリスト達に対して「君たちは虹に目がくらんで何も見えなくなってしまっているんだ」と歌いかけています。ミック・ジャガーは時としてとても優れた詩人になるのです。私が昔この歌詞をかなり勝手に意訳したことがあるのですが、ここで紹介したいと思います。

君は母さんの胸に顔をうずめた時の感覚を覚えているか?
君がその乳首にかみついた時
母さんは顔を引きつらせながらも微笑みを保ったのを覚えているか?
そして父さんがそれを遠くから優しく眺めていたのを知っているか?

君は虹に目がくらんでしまっている
風が吹くのを眺めて
君は虹に目がくらんでしまったんだ
夜、眠れるかい?
夜、夢を見るかい?
できないはずだ

君は赤ん坊のふわふわの頬にキスしたことがあるか?
赤ん坊のまあるい笑顔に受け入れられたことがあるか?
いつまでも終わらない戦争の中で
その赤ん坊の目の前で撃ち殺される父親を見たことがあるか?

君は虹に目がくらんでしまっている
窓の外には行きかう人の顔
君は虹に目がくらんでしまったんだ
夜、眠れるかい?
夜、夢を見るかい?
できないはずだ

 宗教は人の目をくらませる「虹」になり得るのですが、この小説の主人公の妻は「愛」という「虹」に目をくらまされ、主人公は「自分」「合理性」などの「虹」に目がくらんでしまったのでしょう。誰もが一見美しいけれどそれに目がくらんでしまうと、他の大切なものを失ってしまう「虹」を持っているのだと思います。
主人公もその家族も「虹」という大義名分はともかく、安心して一緒に居たかっただけだと思うのですが。

 ところで、この著者は「人生なんて意味がない」といつも豪語していますが、執筆に関しては極めて強い意志を感じますね。「どうせ死んでしまうのだからどうでもいい」と考えているとは全く思えません。この生の中で自分自身をこのように表現することに大きな意味、意義を感じているとしか思えません。本人はねっとりと反論するでしょうけれど。
 そんな人間らしい矛盾もあるからこの作者は面白いんですよね。


13:00 | スローリーダーの耽溺読書体験 | comments(0) | trackbacks(0)
ダイアローグ
年末のある晩、2010年のコラボに向けて、同業のキレモノ(キワモノ?)何人かとミーティングを行いました。日中は主に私がプレゼンテーションをして、メンバーと意義深いディスカッションをしました。とても充実していて、今後継続するセッションが楽しみです。
そして、夜の部は居酒屋での酒の入った議論となったのですが、結構真面目なメンバーが多く、午後の内容をそのまま引き継ぐのかと思いきや、やはり酒が入っているせいか、下らないオヤジギャグなども頻発し、私も「こりゃもうまともな議論はダメだ」と観念し、下らない、けれど面白おかしい内容の会話をしようと半ば開き直りました。そこで我々はどんなコメントも批判・否定しないというグラウンド・ルールを作りました。それから私達はどんな下らないアイディアにも「いいですねー」と相槌を打ちました。
それはもう、午後話していた内容とはかけ離れたトーンで、とてもまともなビジネスマンとは思えない、子供じみた内容でした。しかし、そんな会話でも続けているうちに、「それってマジでやってみたいよね」「実現できちゃうんじゃない?」「こんなこと考えるヤツ絶対いないよね」などと、ワクワクした気分になってきたのです。しかも、よく考えてみるとまさに午後に話していた路線から決して外れてはいないし、明らかに先入観という箱から出ているまさに「Out of the box」的な内容なのです。何かが起きていると気づいたメンバーはそれが酔いが覚めたせいなのか、酔いが回ったせいなのかよくわからないまま、真剣に意見を出し、最後には、初めに全く想像しなかったような奇想天外な企画が出来てしまったのです。
下らない成果物でも酔っているときはいい出来だと、みんなそう思うのだよ、と言われるかもしれませんが、数日たった今でも、やはりそれは面白くてユニーク、かつ現実的な企画だと思います。内容はまだ公開出来ないのですが、これは皆で力を合わせる価値のあるものだと参加メンバーみんなが思いました。
これこそ、対話(ダイアローグ)ではありませんか?一見下らないと思わせるコメントも全て受け入れ(その時はどうせ酔っ払っているんだから、楽しけりゃいいや、と考えていたわけですが)、自分も自由に発言する。そんなことをヘラヘラ笑いながら続けて生まれたのが、「ベートーベン」や「ゲゲゲの鬼太郎」をキーワードにした新企画です。
いやー、こんな対話いつ以来でしょう?学生時代以来かもしれない。こういった対話はどうしてもビジネス・ミーティングでは出来ないものです。また、通常の飲み会ではどうしても、下らない発言があるとだれかが面白おかしくつぶしてしまうので、愉快ではあっても広がらないのです。しかし、このメンバーはどんな意見もヘラヘラと受け入れた。そして何かが生まれた。
面白いものですね。
これは今年、面白い形で皆さんにも発表出来るかも知れません。楽しみにしていてください。
09:20 | Diary Out of the Box | comments(0) | trackbacks(0)
「強み」とNLPのプロセスワーク
 先日ですが、NLP実践者の方々とストレングスやポジティブ心理学について話すという勉強会を行いました。一応私がファシリテーターということで、前に立ってスライドをおこしていたのですが、「講師」ではない、ということで、いくつか実験というか遊びというか、試してみたところ、それなりに気付くところがありました。
 まず、今回はちょっとしたプロセスワークにしてみたいなあ、と思ったのです。(普通のプレゼンはもう飽きた、というのもあります)ここでいうプロセスワークとは、ある葛藤において感情(特にネガティブな)を持ったらその感情を増幅してそれをじっくり観察するというものです。
私がしっかりした講師となって参加者の方々に何か大層なものを教示する、という構図にしてしまっては特に感情は生まれそうもないので、「私は自分は講師ではないのだからみなさんは黙って聞いていないで、途中でもどんどん質問してください」とお願いしました。さらに、これはなりゆきでもありましたが、午後からの勉強会なのに事前にランチビールをひっかけて行くという不謹慎ぶりを呈し、しかもそれをセッションのなかで参加者にへらへらと告白しました。こうなると、私を「講師」と思っていた人に対して私の威厳というものはなくなり、彼らは不信感と不安感、あるいは人によっては嫌悪感を感じ始めたことだろうと思います。
さらに私は、「ポジティブ心理学をネガティブに語りたい」と言った上で、NLP実践者としてはどうも納得出来ないだろう「ボジティブ・シンキングなんてどうでもいい」とか、企業の中では最終的に金儲けにつながらないポジティブ活動なんて意味がない、などという挑発的な発言をしたところ、参加者の一部の顔には完全に嫌悪の色が見えました。こう書くと私は客観的に見ていたように聞こえるかもしれませんが、当然そのような参加者の反応には私も感情的に反応(基本的にはネガティブ)し、その場のラポールは瀕死の状態となったのです。(プロセスワーク準備完了)
 普通の研修でこんなことをやっていたらクライアントの窓口部著から出入り禁止になるでしょうが、これは「勉強会」で私は「講師」ではない、ということと、プロセスワークをするときにラポールを大事にしていては感情の増幅は出来ない、ということで開き直り、お互い居心地の悪いまま、やや沈黙ぎみの休憩をはさみ後半に突入。
 私が一番ねらっていた葛藤は、ストレングス理論が言っている「人の本質、才能は成人後基本的に変わらない」というやつです。人に変容を起こすことを業としているNLP実践者としてはそれはなかなかそのまま受け入れることは難しい内容だと思い、あえてそこを強調して投げかけてみると、案の定皆さん不満顔。参加者の中にはそんな中、何とか調和を取り戻そうと「まあ、変わらない、というよりも難しいということでしょう」と収束への助け船を出してくれる方もいました。その通り、と言えばすんなり次に進めるのに私は「グレーはある。しかし、かなり変わらないに近いグレーです」のような、さらに反感を高める意固地さを捨てない。
 最後には、フィンランドメソッドを使って、この葛藤のポジションを交代(私が参加者のポジションに入り、参加者の誰かにこちらのポジションに入ってもらって議論を続ける)というのを考えていたのですが、私がポジティブ心理学の話にてこずってしまったのと、Q&Aが思ったより長かったので、それは実現できませんでした。ですから、構図的には私は強み理論の擁護者で終わってしまいました。NLP実践者として批判もしたかったのですが。。。
 その時の相互のネガティブ感情を増幅してみるとこんな感じでしょうか。(もちろん、実際の各参加者の思いは知る術もないのですが、あの時に私が場から感じた(主にネガティブな)感情を私なりに増幅するとこうなる、ということです)
 参加者:「なんだあの講師。こっちは大切な休みを返上してきたのに、あの態度はないだろ。しかもポジティブ心理学なんて、いろいろデータで証明しているとか言っているけどなんら新しいものはない。企業に受けていると言ったって、結局企業の持続的経済的成長のため、とか言いながら所詮その薄っぺらさが、我々のような専門知識を持っていない担当者に受け入れられやすいだけだろう。「強み」は変わらない?ふざけるな。我々がNLPを実践して多くの人々を変容しているのを知らないのかあの講師は。だとしたらとんでもないモグリだ。ストレングス・ファインダーにしても薄っぺらいから受けているだけで、本当に人の思考・感情・行動のパターンを表しているかは大きな疑問だ。あんなものその時の気持ちや意思でいくらでも操作できるぜ。単なる出版マーケティングの成功例だろ。」
 私:「やっぱりNLP実践者というのはセラピー的な変容や癒しが好きなのだろうな。だから、企業にとって人材育成も結局は経済的な成長を最終目標としていると言うと嫌な顔をする訳だ。社員の幸せが目標とか言っている企業は多いけれど、それも結局は持続的な経済成長のためだし、経済的な目標指標を持たない部門にしてもそれは経済成長を担う企業の中での1役割であるということなのに。この中には他人を変容させることに生きがいを感じている人もいるのかもしれないけれど、人はみんな変容したいわけじゃあないんだよ。精神的に弱っている人を変容という形で回復するというのは必要だけれど、今日話しているのは健常な精神からさらにどうパフォーマンスを高めていくかという話だ。健常者にしてみれば無理に変容するより今持っている強みを活かすことで少しずつ自分らしく変わっていうことの方が現実的だよ。だからストレングス・ファインダーが受け入れられるんだ。これは単なるブームじゃない。NLPが人を変容できるというのは分かるけれど、今どれだけのNLPerが持続的で意義のある変容を起こし、卓越したパフォーマンスを促していると言えるのだろうか?(確かにスポーツ分野では成功事例が結構あるようだけれど、一般ビジネスパーソンではどうだ?)NLPでの変容なんて所詮は一時的なプラシーボ効果ではないか、という批判に対して、実際の事例やデータで反論できる実践者がどれだけいるのだろうか?それが十分にできないのだったらNLPが企業で受け入れられにくいのはもっともなことだと思う。そしてそれは本質的には対企業だけの問題ではないはずだ。」
 ちなみに、これはどちらも私の感情から生まれた意見なのです。参加者の感情も、私がそのポジションに移って見たときの感じを増幅したもので、この通りに感じた人がいたかどうかは分かりません。そして私はこの両方の意見に納得しているのです。(まあ、ここでのNLPの定義は少し古いかもしれないですね。この両方の意見を取りこめるように進化したNLPというのはありえるわけで、実際には単純なNLP vs 強みという構図ではないと思います。でもまあ、ここでは葛藤ありき、だったので。。)
 NLPのワークで自分のリソースに気付いたり、それを自分のエネルギーとしてチャージする際の一つのオプションとして、ストレングス・ファインダーなどのアセスメントの結果を使いましょう、と言えば、参加者の皆さんとしてはもっと納得感があったのでしょうが、それではあまりに当たり前で、トレーニングやセミナーではなく「勉強会」というゆるい集まりならではの面白さがないと思いました。プロセスワークを行った後の後味はあまり良くないのですが、色々気付きはありました。お互いこのように見られ得るのだな、そして、自分の反応のパターン。結局、これら2つの意見を包括できるような理論、あるいは実践を目指せればよいのだと思います。
参加者よりも私が一番勉強させてもらったのかもしれませんね。もし、参加された方でこの文章を読んだ方がいましたら、こんなことを私が狙っていたとご理解頂けると幸いです。もし不愉快だったとしたら、ごめんなさい。「勉強会」というものを、私はこのように認識していたのです。ただ、もし興味があれば、ご自分のその時の感情を増幅して、私の書いたものなどと合わせて考えてみると、ご自分とNLPあるいは「強み理論」との関係について、何か気づくかもしれないと思います。
08:55 | Diary Out of the Box | comments(1) | trackbacks(0)
拘束かクビか
 年末に放送していた「資本主義」をテーマにしていたTV番組で面白い場面がありました。そのプログラムでは、サブプライム・ローンやリーマン・ショックに見られるような資本主義の暴走について色々な人が意見を言っていたのですが、最近工場を解雇されたらしい元東ドイツ系のドイツ人のコメントです。
 「旧東ドイツでは会社の文句を言うと拘束されたが、今のドイツではクビになる。こっちの方がひどいよ。」
 なるほど、気持ちはよく分りますね。東ドイツ時代には思想的な自由がなかったわけで、「言いたいことが言える」言論の自由こそが、誰もが切望するものだったのでしょう。しかし、東西が合併し、資本主義社会となった今では、基本的に言論の自由はある。しかし、経営とはドライなもので、効率性を重視しているため、不満分子や生産性の低い人に対して企業は、解雇という形で本人が望んでいた以上の自由を与えてしまう訳です。 
 皮肉なもので、こうやって食えなくなってしまうと、思想弾圧でも何でもOKで、とにかく金をくれ、パンをくれ、ということにもなりますよね、確かに。その番組は、暴走してしまった資本主義はこのままではとてもグローバルに機能するとは思えない、どこかで修正を入れなければならない、と考えさせるものでしたが、私は、個人としてこのような状況にどのように対応するべきなのかを考えました。
 資本主義社会の中で職がないということは、マズローの言う生存欲求が脅かされている訳ですから、とても自己実現のような上位の欲求に向かうことはできません。しかし、もし自分が「言論の自由」というものに高い意味づけをしていたとすれば、「たとえ拘束されることがあっても、おとなしくしていれば食えた社会主義時代の方がよかった」とは発言しなかったはずです。それではまるで隣の芝生が青く見えただけのようなものですものね。
 自分が会社をクビになり、食うに困っている状況にあったとして、本当に自分にできるかどうかは分りませんが、それでも冷静に資本主義社会の良いところ、修正しなければならない点などを議論できるような人間になりたいと思います。それがヴィクトール・フランクルの言う尊厳のある人間だと思います。収容所の極限生活の中でも自分が生き残ることだけを考えるのではなく、他人のことを思いやり、ユーモアを忘れない。そんな強さを持ち合わせたいです。
中島義道さんの言うように、確かに人生なんて無意味で、理不尽で、所詮は気晴らし以外のなにものでもない。でも、だからこそ生存よりもより高次の概念の方を大切にするという尊厳のある人間を「演じ」ることも出来るのではないでしょうか?
 そうなるために必要なのはよく考え、沢山行動することです。「ユーダイモン」になることです。
08:54 | Diary Out of the Box | comments(0) | trackbacks(0)
変容しないという選択
 新年になると、そこいらじゅうで色々な人が今年の抱負を語っていますね。結構なことですが、多くの人が今年中に変容するという旨の目標を立てていることに少し考えさせられました。もちろん、人間生きていれば誰でも少しずつ変わっていくものですが、ここで言っているのは、今までの自分とは違った考え方、行動を手に入れるということです。
 昔私にNLPを教えて下さった先生はコーチングをやっている人たちに対して「彼らの多くは人を変えることにばかり生きがいを感じている」と若干シニカルに言っていました。それを聞いた私は「確かに変容が必要な人にとってはいいけれど、そうでない人がコーチの趣味で無理やり変容させられてしまってはいい迷惑だな」と思ったものでした。
 変容、あるいは変容しない、というテーマについて考えると、私はもう10年も前のことになりますが、私が住んでいたアメリカのデトロイト郊外での出来事を思い出します。
 偶然ですが、その地域にはさらに5年以上遡った私のビジネス・スクール留学時代にルームメイトだったビルが住んでいました。ちょうどその日、私は彼と赤ちゃんを置いて奥さんと上の娘さんが出かけているところに遊びに行き、久しぶりにビールを飲みながら語らったのでした。

 デトロイト市内とは雲泥の差がある郊外の高級住宅地にその一軒家はありました。日当たりの良い居間からは春らしい芝生の緑が広がっているのが見えました。西日がスプリンクラーの水に濡れた芝生を照らしている図はアメリカ映画の1シーンのようでした。居間のソファーに向かい合って座っている私たちはビール瓶を片手に久しぶりの再会をじっくり味わおうと余りしゃべらすにお互いの顔を懐かしそうに見つめていました。ビルのソファーの横にはベビーベッドが置かれ、アメリカの子守唄のメロディーが流れていました。
 大酒飲みだったビルのビールがあまり進まないのを見て私は少し心配し、改めて元気か?と尋ねました。
 「ああ、とても元気だ。」
 なんだか違和感を持った私はさらに突っ込みました。
 「そうか。で、この生活には満足しているんだな?」
 「ああ、そうだよ。」
 私はやはりすっきりしないものを感じましたが、ビールを口に含め、横の壁に貼ってある世界地図に目をやりました。そして大阪に何年も住んでいて日本語もペラペラだったビルは日本以外にもアジア諸国を旅行していたという話を思い出しました。
 「もう日本語は話さないのか?まだ忘れていないだろ。」
 「いや。もう殆ど話す機会はないね。昔の日本の友人が今でも相撲の一場所が終わるとビデオを沢山送ってくれるのだけれど、全く観ないね。もう時間がないし、興味も無いんだ。もう止めてくれって言わなけりゃな。」
 「でも、お前くらい語学ができてセンスもいい奴が、勿体ないよな。」
 ビルは少し面倒くさそうな顔をして言いました。
 「いや、妻が日本語には興味ないからな。」
 私は驚いてビルの顔をしばらく見つめた後、無意識にまた壁の地図に目をやりました。するとビルもその地図を眺めながら言いました。
 「お前は俺の友達だから言うけれどな、俺はもう諦めたんだよ。お前みたいに世界を股にかけて仕事をしているヤツをみると正直言ってうらやましい気もするけれど、俺は俺でこれでも幸せなんだよ。」
 私は差し出がましいとは思いながらも、こんなことを言いました。
 「オレもお前が友達だからこんなこと言うんだけれどな、オレはいつも自分が何か大きな変化を生み出しそうな時、昔の自分が今の自分を見たらどう思うだろうかって考えるんだよ。」
 ビルは私の言葉が終わらないうちにそれを遮るように言いました。
 「俺だったらこう言うぜ。こんなの最低だって思っているだろうけれど、一度やってみな。尻に敷かれたファミリーマンってのも悪くないぜ、ってな。」
 再び壁の方に目をやったビルの目は少し怒っているようでもあり、悲しそうでもありました。

 繰り返しますがこれはもう10年も前の話でビルも私もその土地からは離れ、それぞれいいオヤジになっている訳ですが、人からもっと変容しろと言われたりして変容のことを考えさせられるといつもこの情景を思い出します。

 確か三代目魚武濱田成夫の詩に「女たちはオレの少年っぽさが素敵って言うが、ふざけるな。少年というものはそんなに生易しいものではないんだ。少年というのはブランコに乗って、大人だったらもうとっくに馬鹿らしくて止めるところをいつまでもブランコに乗り続けて、最後には気持ち悪くなってゲロ吐いて、それでもブランコに乗り続けるような命がけのものなんだ。」みたいなことが書かれてあったと思いますが、変容するのも大変ですが、変容しないのも生易しいことではないですよね、確かに。

今年はあえて変容を試みるか、不変容を目指すか、どうしようかな。
そもそも「変容」とは何でしょう?行動を変えること?考え方を変えること?感情を変えちゃうこと?はたまた意味を変えること?
12:35 | Diary Out of the Box | comments(0) | trackbacks(0)
夜と霧
夜と霧

 ユダヤ人心理学者であるヴィクトール・フランクルがナチスの強制収容所、しかもアウシュビッツでの過酷な体験を冷静な目で観察し、人間の根源的な存在について鋭く論じた本書はあまりに有名ですが、この歴史的作品を読んで、私は自分の父親のことを思い出さずにはいられませんでした。
 私の父は終戦直前に兵士として満州に渡り、終戦後すぐにモンゴルのウランバートルの近くに抑留され、2年間強制労働を強いられました。仲間が次々に死んでいく環境の中、父は運よく生き残り、何とか日本に帰ったのですが、父は私達にその抑留時代のことは殆んど語りませんでした。こちらから聞いても、日本に戻って焼け野原となっていた東京を見た時は驚いたなあ、などと論点をずらしていたのを覚えています。
 しかし、私が大学生の時、文化人類学で年配の人からその人生の歴史を聞いてレポートを書く、という宿題があり、私は父のそれまでの生涯についてレポートすることにしました。父もこれについては快く受けてくれました。そのインタビューの中で、父は抑留生活について「毎日生きる意義はなかった」などと語ってはくれましたが、フランクルのように詳細には描写することはありませんでした。私もあまりその時代についてばかり突っ込むことはしませんでした。ただ、父の手や足の爪に生涯残った凍傷の痕はその2年間の苛酷さを語るには十分なものでした。
 そんな2年間を耐え、無事に帰還したというだけで凄いことなのですが、「夜と霧」の中でフランクルが書いているような、人間の尊厳という点では父はどのように振舞っていたのか、それについては想像するしかありません。
 強制収容所での現実、そこで表われるリアルな人間の姿を見たフランクルは人間と生の意味について書いています。

 人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかというこという、人間としての最後の自由だけは奪えない。
 仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安堵な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではない。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。
 およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩とそして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。
 私たちをとりまくすべての苦しみや死に意味があるのか?もし無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。
 きわめて厳しい状況でも、また人生最期の瞬間においても、生を意味深いものにする可能性が豊かに開かれている。勇敢で、プライドを保ち、無私の精神をもちつづけたか、あるいは熾烈をきわめた保身のための戦いのなかに人間性を忘れ、あの被収容者の心理を地で行く群れの一匹となりはてたか、苦渋にみちた状況ときびしい運命がもたらした、おのれの真価を発揮する機会をいかしたか、あるいはいかさなかったか。そして「苦悩に値」したか、しなかったか。
人間の内面は外的な運命よりも強靭なのだ。
 ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。私たちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちに何を期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない。哲学的用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。
 わたしたちひとりひとりは、この困難なとき、そして多くにとっては最期の時が近づいている今このとき、だれかの促すようなまなざしに見下ろされている、と私は(仲間に)語った。だれかとは、友かもしれないし、妻かもしれない。生者かもしれないし、死者かもしれない。あるいは神かもしれない。そして、わたしたちを見下ろしている者は、失望させないでほしいと。惨めに苦しまないでほしいと、そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めてほしいと願っているのだ、と。

 本当に深い言葉ばかりです。フランクルは被収容者の中に、生きるために仲間を裏切って収容側についていい思いをしている者、なかにはサディスティックに仲間を殴ることによって自分の評価を上げようとした者がいたことを語っています。確か父も、ロシア語を話せるものだから通訳として収容側についていい思いをしていた連中を日本に帰る船のなかで袋たたきにした、というようなことを言っていました。自分が袋たたきにしたとは言っていませんでしたが。
そのような極限状態の中では多くの人が人間としての尊厳などよりも、少しでも食うこと、生きながらえることのためには何でもしてしまうのでしょう。それが尊厳を持った人とそうではい人を分るのです。
 父の収容所での尊厳的な生活を私に伝える出来事がありました。それは父の葬式の時。父の収容時代の仲間のKさん、この人は親族ではないのだけれどとても父を慕ってくれていた人だったので親族の席に座ってもらったのですが、そのKさんが突然立ち上がってこのようなこと言ったのです。
「私は親族の皆さんに一言言いたい。私はSさん(父)が亡くなって本当に残念です。Sさんは本当にいい人でした。あまり多くを語る人ではなかったのですが、本当に優しい人でした。今でも覚えているのは、抑留時代に仲間たちが病気になって診療所にも行けない状態になったとき、身体の大きいSさんは、自分も疲れているのに率先してその仲間たちを次々に診療所へとかついで行きました。私はそんなSさんの姿が今でも忘れられません。その他にもお話したいSさんの収容所での素晴らしい行動は沢山あります。ここでは全てを話せませんが、いずれ書きものとして皆さんに残したいと思います。」 
 この時は親族のみんなが咽び泣きました。残念ながら、このKさんはその後心臓を患い、仰っていた書きものを残すことはなく他界されてしまいました。しかし、Kさんの言葉の中に父が示したであろう人間としての尊厳が垣間見られます。
子供だった私にとっての父は地味で、普通の働きもののサラリーマンといった感じで、反抗期には将来ああはなりたくない、というモデルでもありました。あんな人生はつまらない。いい人なのは分るけれど、自分を少しも表現していないし、つまらなそうだ、などと考えていたのを覚えています。ガンを患って、もう後長くないという時にも、特に大きな言葉を残すこともなく、私には「まあ、楽しんでくれ」という言葉だけを残して静かに亡くなりました。(この言葉は今となってはとても意味深いのですが)特に尊厳を持っていたかどうかは分りませんでした。もともとあまり大袈裟なことをしたり言ったりすることが好きではなかったように思います。
 しかし、この収容所でのエピソードは私にとって父の尊厳ある生き方を示唆するとても重要なものです。父がインタビューの中で「毎日、いつ死ぬか分らず、何のために生きているのかも分らなかった」と言っていましたが、本当に生に意味がないと考えているのであれば、疲れた身体に残ったかすかなエネルギーを振り絞って仲間を担いだりはしないでしょう。父は自分の武勇伝を誇らしげに語るような人ではなかったのですが、極限状態の中でもしっかり尊厳は持っていたのだろうと信じます。
 そして意外ですが、そんな父のDNAを私が受け継いでいるのです。まったく違うキャラクターですが。。
 私は人生に意味を求めてきましたが、中島義道さんの言うように、結局結論としては「そんなものはありゃしない」ということになるのでしょう。しかし、その問いを「人生は私に何を期待しているのか?」と変えたらどうなるのでしょう?父は自分のかすかに残っているエネルギーを消耗させても仲間たちを診療所に担いでいかなければならない、と何ものかに促されたのでしょう。その時、毎日が無意味であっても、その苛酷な人生から自分が期待されていることが分っていたのです。
 いくら待っていても「人生に意味」なんか生まれないかもしれません。では自分の前に立ちはだかっている人生からの期待とは何か?

 「人生はしょせん気晴らし」ではなく「夜の霧」を年の瀬に読めたことはとても幸運だったと思います。「夜の霧」これは間違いなく私にとって2009年最高の読書でした。

謹賀新年

11:54 | スローリーダーの耽溺読書体験 | comments(0) | trackbacks(0)
人生、しょせん気晴らし
 「勝間和代を目指すな」、と書いた香山リカさんと私が文学者以外の日本人の物書きの中では一番注目している、哲学者中島義道さんとの対談「生きているだけでなぜ悪い」を読んだんですが、二人の議論はあまりスリリングな感じでもなく噛み合ってもいないので消化不良となり、合わせて中島さんの最新作「人生、しょせん気晴らし」を読んでみました。
 これが本年最後の読書になってしまうかもしれないのですが、いやー、読後は絶望感で一杯です。この人の書く本は本当に毒ですね。人生なんて所詮誰にとっても理不尽なものであって、意味なんてない。生きる価値なんてないけれど死ぬ価値もまたない。理不尽さを噛みしめくだらない茶番を演じることだけが人生なのだ、というのが彼の哲学のようです。あまりに真実、だけれど読んだ後は本当にやる気がなくなります。離婚して、その辺のおマワリをぶん殴って自殺してやりたくなります。しかし、本屋でこの作者の本を見つけるとつい手にとってしまうのですね。ホント、麻薬です。
 この「人生、しょせん気晴らし」の中にはこんなことが書いてあります。

 人生の暗い面、(広い意味での)悪が私を生かしてくれることに気付き始めた。なんで世界はこんなに矛盾と理不尽と悪に満ちているのだろうと思うと、心は癒されるのだ。どんなに懸命に生きても、みんな死んでしまい、人類はやがて滅びてしまう、と実感すると心は平静になるのだ。
 カントによれば「幸福になれ!」という命令は無意味である。何人も幸福を求めているのだから、あらためて命令される必要などないのである。だが、「幸福に値するようであれ!」という命令は有効だとカントは考える。そして、私は自分が「幸福に値しない」と思う。なぜなら、私はずいぶんと多くの人を不幸に陥れているからである。{全くだ!:萩原}
 世の大人たちに「大人」の要件を問うと、決まって「責任感」とか「自立」とか「社会性」とか「感情のコントロール」とか・・・「善いこと」ばかり並べる。自分がそんなに立派ではないことを知りながら、問われるとつい理想的な大人を、つまり「きれいごと」を語ってしまうのである。・・・自分が責任感と社会性を具え自立し感情をコントロールできる立派な大人になりえていないことぐらいすぐわかるであろうに。
 {これ最高です!この人もう70歳ですよ。:萩原}日本の調査捕鯨をオーストラリアの環境グループが暴力的に阻止しようとし、逮捕されたらしい。「環境テロリスト」というそうだ。こういうニュースを見聞すると、自分の信念を実現するためにもっと真剣に戦いもっと没落しなければ、とシンから思う。いままで、放置自転車をけり倒したり、駅員のマイクを奪って線路に投げ捨てたり、酒屋のスピーカーを引き抜いて民家の池に捨てたり・・・この程度の軟弱な抵抗に留めておいたが、こういう武勇伝を目の当たりにすると。自分の戦い方は甘いなあと痛感する。いまから南氷洋に行って彼らと合流してもいいのだが、一方で、鯨肉は口に入れるのも汚らわしく、また他方、鯨が全滅しても一向に構わないので「どちら」につくべきか分らないのだ。
 哲学は人を救えないものです。正確に言えば、世界とは、私とは、時間とは、善悪とは、何か分らなくて悩んでいる人をある程度救えますが、幸福になりたい人を救う能力は皆無だと確信しています。むしろ、哲学とは不幸になってもいいから真実を知りたいという欲望をもっている人にのみ開かれている。真実は必ずしも人々に慰めや、心の平安や幸福を与えるわけではなく、逆に不安や不幸を与えるとしても、あえてそれを追求するのですから、相当ヘンな欲望ですね。
 哲学を主観で捉えると、それは言語を正確に語るということです。哲学とは、厳密に言えばヨーロッパ人の思考方法であり、日本の伝統には合いません。言語活動に対する態度がヨーロッパ人とは全く異なるからです。そういった異質な、ヨーロッパ起源の言語活動をしているのが日本の中では法廷と哲学です。

 こんな本を年末に読んでいる私は来年こそはポジティブ何とかからは卒業できるかもしれない、という期待でワクワクしてきます。しかし、一方、この読後感の気持ち悪さはやはり、私は中島氏の意見を完全に肯定しているのでは無いのだろうな、とも思うのです。上の引用を改めて見てみると、やはり哲学者はマゾヒストでなければ出来ないようですし、白と黒をはっきりさせる西洋的な二元論の強い影響を受けているのでしょう。私はMでもないし、西洋的な二元論やメタモデル一辺倒のコミュニケーションにも陥りたくありません。ある意味、NLPやらメタ・コーチングやらポジティブ何とかとかが、私を答えのない、論理のアリ地獄から救い出してくれるのかもしれません。確かに中島氏がミルトン・モデルを習得したりしたら彼の頭の中は大変なことになってしまうでしょうね。試してみたいですが。。。
 ともあれ、毒はあるものの、非常に魅力的な本ですので、お正月に自分は幸せすぎる、とか感じたら読んでみてもいいのではないでしょうか?

21:44 | スローリーダーの耽溺読書体験 | comments(0) | trackbacks(0)
クオリア再構築
 実は、お恥ずかしながら私、茂木健一郎の本を読んだのは初めてなんです。今回も私が好きな作家、島田雅彦との対談だから面白そうだと思って手にとって見たものの、どうせ最近の「脳ブーム」のちゃっかり乗ったおしゃべり上手の学者さんという程度のものだろう、と思っていたのです。TVに出ているのは何度も見ていますが、いかにも好感を持たれそうな感じがするものの、これといってスパークも感じなかったし。
 しかし、この対談を読んで、今更ながら、なかなか凄い人なのではないかと思い始めました。話のこしを折り、不真面目に知識を茶化す島田雅彦の話にもちゃんとついてこれる博学ぶりですし、何と言っても人間臭いところがあっていいですね。きっとファンにとってはこの人間臭さがたまらないのでしょうね。

 例えば、何でもかんでもサブカルチャーにしてしまう今のメディアについてこんな会話をしています。
島田:「愛もサブカル、政治サブカル」
茂木:「ふざけるんじゃねえっていう感じだよ」
島田:「この際、ヤケになってプッツンしている女と付き合ってみろって、愛の全面的肯定なんてできなくなるから」

 怒りについて話しているときにも、こんな自己嫌悪を告白しています。
茂木:「俺、今日は毒舌すぎるかな。でも昔、つくばに住んでいたことが二カ月だけあって。土浦のキヨスクで本を買って、上野に着くまで読んで、頭にきたから上野駅のごみ箱にバーンと捨ててきたことがあるわけ。ところが、最近、ある公開の場でその本の話になった。(茂木さんこれ読みましたか?)と聞かれたから、(ああ、読みましたよ)と答えた。
島田:(捨てましたよ)だろう。
茂木:そうは言えないんだって。何で俺、それをばっと捨てたのかということはいえないんだって。そんな短い時間で。いえないし、いってもわからないし・・・・。

 さらに自分は近代人ではないと嘯く島田に対してはこんな過激なことを言っています。
茂木:「病深いな、あんた壊れるよ。本当にそこまでいっているのか。」
茂木:「確認ですが、勝手なことをいわせてもらうと、あなたがいったことをもし本当に突き詰めたら、あなた、死にますよ。」
島田:「どういう意味ですか」
茂木:「あなたの個別性を失う」

 いやー、痺れますね。脳関係の本って、どうじてもポジティブ・シンキングとか五感の話とかになりがちですが、脳科学者の考える哲学というのは実に面白い。ところで、茂木氏が上野駅でバーンと捨てた本ってなんでしょうね。後で公開の場で質問されるくらいだから今話題の本ですよね。茂木氏に聞くんだから他の脳科学者の本か、それとも話題のK田氏の本か、はたまたK間氏のものか。。。
 茂木氏に興味を持った私は勢いにのってもう一冊読んでみました。それは「セレンディピティの時代」。極めて軽くて読みやすい本ですが、やはり彼の人間臭さは出ていました。例えば、こんなことが語られています。
* ニーチェの「超人」というと大袈裟な言葉のように聞こえるが、つまりは、生きる上で「何をなすべきか」「何に価値を置くのか」ということを、自分自身で判断し、決定できる人のことである。ニーチェはそうしないと、本当の意味で生きているとは言えないと考えたのだ。
* 「セレンディピティ」を身につけるためにも、主体的に行為し、何が価値のあるものなのかを見分ける鑑識眼が必要である。その際、「何をすべきか」「何に価値があるか」ということを社会に丸投げしていては、自分の限りある命を輝かせているとは言えない。
* 今の世の中は、異議申し立てをすること自体を良くない、とするような風潮があって、「とりあえずみんな仲良く」「日日是好日」「若者も、縁側でニコニコ微笑む笠智衆のような達観の人であれ」っていうような無言の圧力があったりする。でもちょっと待ってくれよ。若い時は、怒っているくらいがむしろフツーじゃないだろうか。もちろん、やたらと怒り散らして、自分や周囲の人を傷つけても仕方がない。しかし時には、ひとつ「ドカーン」と怒りを爆発させてみて、いろいろなことを「リセット」し、そのうえで物事を考えた方が建設的だし、何よりも「爽やか」だということがあるのではないだろうか。(で、ジョン・オズボーンの「怒りをこめて振り返れ」の話に続く)
* ドストエフスキーなどのロシアの文学作品を読んでつくづく思うことは、「劣等感こそが人を育てる」「劣等感こそが芸術の創造性につながる」ということ。そもそも劣等感がなければ、人は、芸術性の深みに達することができないのではないか。
* 私が最も大事だと思っている生き方の原理とは、「それぞれの人がそれぞれの人らしく」ということである。自分らしさを追求するということが、人生においてこの上なく大切なことだと思っている。人としてこの世に生を受けた以上、「自分らしさ」を追求すること以上に価値のあることはない。自分の内側にある何ものかを育てること。小さな芽が伸びて、やがて大木になる。その過程を大事にすること。自分のユニークさが育つことこそが、人生で最も大切なことであるように思うのであります。 
 その最も大切なことをナイガシロにするようなKYという言葉は、気軽に面白おかしく口にするべきではない。そんな言葉がマスコミで流行語として扱われること自体、現代の日本の荒廃を表しているとしか思えない。

 いやー、面白いですね。こういうことを言う人だったのですね。年収、ポジティブ、天才性みたいなことを連発している人たちとは一味違う感じがしていいですね。ちょっと好きになりました。


11:27 | スローリーダーの耽溺読書体験 | comments(0) | trackbacks(0)
マズローの心理学
 11月後半にシドニーにてメタ・コーチングのトレーニングを受けてきたのですが、多くの友人たちから「メタ・コーチングって何?」「メタ・コーチングの理論が分りやすく説明してある日本語の本って何?」と聞かれています。
 これは結構難しい質問で、一つは前に紹介した「フレーム・チェンジ」を読んでもらえば、メタ・コーチングにおける質問のテクニックについては分ると思います。さらに、メタ・コーチングのベースとなっている理論「ニューロ・セマンティックス(神経意味論)」、これがはNLP,一般意味論に基づいているものなのですが、それを感じるためにまず必要なのは、マズローの自己実現心理学を理解することでしょう。
 「フレーム・チェンジ」の著者、マイケル・ホール博士によると、NLPの土台はマズローが60年代までにすでに築いていたということです。これは「グリンダーもバンドラ―も決して話さないNLPの秘密」とのこと。また、私が現職で理論的な枠組みに使っているポジティブ心理学も、その名称は90年代に確立されたものですが、これについてもマズローはその基本的な部分の構築をすでに行っていたということが出来ます。
 その「5段階欲求説」だけが独り歩きして有名なマズローですが、古典でありながら最近の自己啓発を大きく超える深い理論を構築していたと思います。
 以下にマズローの数々の著作をまとめた、「マズローの心理学」で書かれていることから私なりに引用、サマライズをしてみます。「自己実現をした人」を徹底的に研究しているのですが、ある意味これはNLPのモデリングの先駆けとなっています。しかしマズローの面白いところはNLPのように全面的モデリングをしてそのモデルと同等のパフォーマンスを発揮するというよりも、そのモデルの思考、信念、哲学などについても洞察し、そのパフォーマンスに対する影響を重視している点です。ある意味、自らのパフォーマンスを見せるのではなく(モデリングから催眠誘導をマスターしたバンドラ―とは違い)、モデラー、学者という立場に徹していたと言えるでしょう。
以下のまとめの後半の「意味」に関する点、これが「ニューロ・セマンティック」あるいは「メタ・コーチング」がNLPなどと差別化され得る重要な点となります。

 マズローは、人間の本性を「邪悪な衝動」であるという前提に基づいて理論構成をしようとするフロイト主義などを第一勢力、人間の本性を「機械的」な図式のもとに理論構成をしようとする行動主義を第二勢力とし、人間そのもの、つまり、人間の欲求・目標・業績・成功などへ焦点を合わせた、自己実現心理学とも呼ばれる自らの理論を第三勢力と呼んだ。
  もともと心理学者として第一勢力的な精神分析などを行っていたマズローだったが、「人類は戦争や偏見や憎悪よりももっと偉大なことをなしうることを証明したい」「これまで科学者以外の人々が扱ってきた問題(宗教・詩・価値・哲学・芸術)のすべてを科学が考えるようにしたい」という強い願望から第一勢力、第二勢力と決別し、人間の可能性、自己実現に注目した第三勢力を確立したのである。マズローはまた、「人は精神の健康を理解するまでは精神の病気を理解することはできない」という信念を持っていた。
 マズローは精神を病んだ人ではなく、自己実現をしている人の研究に没頭した。自己実現した人の定義についてマズローは大まかに「自己実現とは、才能・能力・可能性の使用と開発である。そのような人々は、自分の資質を十分に発揮し、なしうる最大限のことをしているように思われる」と述べた。
 「自己実現した人」を徹底的に研究したマズローは彼らに普遍的にみられる特徴として以下を挙げている。
彼らは、人生を明瞭に(あるがままの姿で)見る能力を持つ、自分の見解に対して感情的ではなく客観的である、人間を正確に判断し、にせ物やインチキを見抜くことができる、また他人の意見に慎重に耳を傾ける謙虚さを持つ、世界を子供のような無邪気な眼差しで眺める、などがある。認識については没判断的であり、過度の寛容、無差別の受容、好みの喪失などが見られる。
 仕事については、仕事と遊びの区別が曖昧になっており、柔軟性・自発性・勇気・過ちをいとわない傾向・開放性・謙虚さなどと結び付いた創造性、そして自発性が特徴として見られる。
 人格の面では、自己矛盾が低い、つまり自分自身の中で一貫性が見られる。彼らは自分の欲望を恐れず、彼らの衝動は理性と一致しているのである。彼らも失敗はするが、失敗を克服するため、自分を恐れることはない。
彼らは社会の中では最も個人主義的なメンバーであると同時に、最も社会的で、友情に満ち、愛情深いメンバーでもある。
平均人は欠乏によって動機付けられる。つまり平均人は安全・所属・愛情・尊敬・自尊心へ向かう基本的欲求を探し求めるのだが、彼らは「自己の可能性と能力を完全に発達させ実現したいという欲求」によって動機付けられる。
彼らにも問題がないわけではなく、無駄話には飽きやすく、癇癪の爆発も珍しくない。しかし、ユーモアのセンスを持っていて、哲学的あるいは雄大なユーモアを好む。
彼らはより多くの自信とゆとりを持ち、人生に決して飽きない。つまり、彼らは日の出・日没・結婚生活・自然を繰り返し鑑賞する能力を持っている。彼らはまた子供に関心を持っていて、子どもと仲がよいことが多い。彼らは他人の長所をほめ、欠点を無視することができる。

生理的欲求、安全の欲求、所属と愛の欲求、承認の欲求などの上位に位置する自己実現の欲求についてマズローは「人がなるところのものにますますなろうとする願望、人がなることのできるものになら何にでもなろうとする願望」と述べている。これは通常愛情欲求と承認の欲求が適度に満足された後に発生する。
自己実現している人は、
1)病気を十分に逸れており、
2)自分の基本的欲求について十分に満足しており、
3)自分の能力を積極的に活かしている。

さらに、彼らはある価値によって自分が努力し、手探りし、自分がそれに対して忠義であるような、そうした価値によって動機付けされている。
「価値の体系を持たない状態は、精神病の原因となる。人類は、ちょうど日光・カルシウム・愛を必要とするように、人生の哲学、宗教など、価値の体系を必要とする。」価値の体系を欠くものは、衝動的で、虚無主義的で、全体として懐疑的である。換言すれば、彼の人生は意味を失っている。 

ダグラス・マクレガーの「企業の人間的側面」の中で紹介されている「X理論」は権威主義的で、人間は働くことを嫌うという前提を持ち、罰によって強制したり、指揮したり、脅したりする経営理論である。一方「Y理論」は
1) 仕事における身体的・精神的な努力の消費は、遊びや休息と同じように自然なことであり、人は生まれながらにして働くことを嫌っているのではなく、仕事はマネジメントの仕方によっては満足の源となる。
2) 外的な統制や罰によって驚かさなくても、人間は自分に委ねられている目標に尽力するために、自ら自己を鼓舞しマネッジするのである
3) 自分の目標達成をすることは、自我の満足や自己実現の欲求を満たすものである、これは企業の目標に向かう努力を直接的に生み出す。
4) 人間は責任として任務を全うするだけでなく、それを自ら探し求めることもする。
5) 組織の問題解決に高い想像性や、工夫の才能。創造性を役立たせる能力はすべての人類に広く与えられている。
6) 現代の産業生活では、平均的な人間の知的能力は生活の一部分にのみ使われている。

 脅威を感じている人たちの住む国では、敏速かつ疑問の介入のしえない秩序が与えられそれに従うことが必要となり、「Y理論」は上手くゆかず、「X理論」が求められる。戦時中のファシズムなどがその例である。
 「健康な人は怠惰より働くことを好む。しかし、たいていの人は、無意味で無価値で空しい仕事をするよりも、働かないことを選ぶ。」
 働く状況のもう一つの健康的な面は、チームの一員であることの喜びである。うまく組織され、うまく機能している組織の一つの部分として、他の人たちと一緒に共同して働く喜びである。
 真の優秀なボスは、彼の部下が成長し、自己実現するのを見守ることに喜びを持つような人である。

 人間の哲学(人間の本質・目標・可能性・実践についての哲学)が変化すると、それにつれてあらゆるものが変化する。


10:08 | スローリーダーの耽溺読書体験 | comments(0) | trackbacks(0)

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